「僕は誰だったかを売って、生き延びた。」──“記憶を売る時代”のジレンマ
- 奧村 哲次
- 4月7日
- 読了時間: 3分

🔸本文:
「思い出を売るだけで、今日の飯にありつけるなら──それも悪くない。」
男はそう言って、機械の前に座った。
記憶をスキャンし、データ化し、マーケットに出す。
「初恋の記憶:3,000円」
「母の手料理の温もり:2,500円」
「小学校の運動会:1,200円」
そうやって彼は、過去を切り売りしながら、なんとかこの世界を生き抜いていた。
しかし──ある日、最後の記憶を売った瞬間、世界が静まり返った。
目の前にある景色が、どこか他人のもののように感じられた。
誰かが呼びかけてくる名前にも、反応できなかった。
「……俺は、誰なんだ?」
過去がなくなった男には、もはや“自分”という概念すら残っていなかった。
でも、だからこそ、彼ははじめて自由だったのかもしれない。
「記憶」がないということは、「呪縛」も、「後悔」もないということ。
そしてそれは、新しい自分を定義できる余白でもある。
🔸現代へのメッセージ:
私たちは日々、自分の「データ」をどこかに預け、売り、交換しながら生きています。
SNSでの投稿、ネットでの検索履歴、オンラインサービスの使用ログ──
すべてが「デジタル遺産」となり、自分を形づくっていく。
しかし、それが自分の“記憶”そのものになったとしたら?
「AIで記憶を補完し、クラウドに保存し、他者にシェアする」時代は、すでに現実のものとなりつつあります。