繋がりの希薄化を、数でごまかす時代
- 奧村 哲次
- 6月23日
- 読了時間: 5分

フォロワー数で測れない "本当のつながり" を求めて
「応援しています!一度Zoomでお話しませんか?」
最近、こんなメッセージがやたらと届く。しかも、ほとんどがテンプレート化された文章で、まるでコピペ。名前こそ入っているが、僕という人間についてリサーチした形跡もない。「SDGsの活動、素晴らしいですね!」という一言があっても、僕がどれだけ自力で、手弁当で、透明サーフボードという前代未聞のプロダクトを創ってきたか、その過程を知っているようには到底思えない。
"応援"の名のもとに、ただ自分たちの仕組みに引き込みたいだけの営業活動。
これのどこが“応援”なのだろうか?
■ SNSで可視化される "つながり" の錯覚
FacebookやLinkedInを覗くと、そこには「3万人のフォロワー」「1,000人のつながり」と誇らしげに書かれたプロフィールが溢れている。
でも、僕はこう思う。
> "フォロワーは、友達じゃない。"
>
> "“つながり”は、数字じゃない。"
本当に何か困ったときに、何人が自分のために動いてくれるだろう?
プロジェクトがピンチの時、製品が売れない時、トラブルで夜中に誰かに相談したい時。
──そういう“本気の瞬間”に、助けてくれるのは何万人のフォロワーでもなければ、応援団でもない。
静かに、でも確かに、傍にいてくれる“1人の理解者”だ。
フォロワー数を名刺代わりにする人間ほど、何も生み出していない。フォロー数やつながり数でマウントを取ろうとする前に、もっと自分の発言や行動に責任を持ってほしい。
「私は何人とつながっています」と誇る人の多くが、その誰の人生にも、本気で関わっていない現実──これは、もはや情報社会の末期症状じゃないか?
■ ITとAIの進化が、つながりを「数値化」してしまった
僕はITの専門家でもある。だからこそ、分かる。
今や、SNSやメール、営業ツールは、すべて「数」によって評価される。
* どれだけ送ったか(送信件数)
* どれだけ見られたか(インプレッション)
* どれだけ繋がったか(友達数、フォロワー数)
でも、その先にある“心の温度”や“信頼の深さ”は、スプレッドシートの列には存在しない。
むしろ、**数値だけを追い求めるあまり、人はどんどん「他者の背景」を見なくなっている。**
「応援」「つながり」「共感」…美しい言葉を並べても、その言葉の前提となる“理解”や“敬意”がなければ、それはただの営業行為にすぎない。
■ なぜ、相手のプロフィールすら見ないのか?
僕は透明サーフボードを開発し、廃棄ペットボトルを素材に再生し、1人でシステムも作り、販売ページも構築し、時には配送設計や梱包素材まで全部1人で考えている。
これは、ただのサイドプロジェクトではない。命をかけた挑戦だ。
それでも「開発もできますよ」「システム担当者紹介しましょう」と言ってくる人が後を絶たない。
──**あなたは、僕の何を知っていて、それを言ってるんですか?**
共感や応援の前に、「最低限のリサーチ」と「敬意」があるべきじゃないか?
何も調べずにテンプレを投げてくる人間の言葉に、心は動かされない。僕はロボットじゃない。情熱で動いてる人間だ。話しかける前に、僕の生き様を、ほんの少しでも見ようとしてほしい。
■ 本当のつながりは、“知ろうとする意志”から始まる
世の中には、立派な人間関係の構築術も、営業トークのマニュアルも、SNSの拡散ロジックも存在する。
でも、そんなものよりも大切なのは、
> 「この人が、どんな思いで、今この瞬間に何をしているか?」を想像する力だ。
僕は、“理解者”が欲しい。
盲目的な応援じゃなくて、行動を見てくれて、その熱を受け止めてくれる人。
だからこそ、フォロワーが1万人いるよりも、1人の“共に汗をかいてくれる仲間”が尊い。
そして、つながる前に「一度ブログを読ませていただきました」とか「サーフボードの背景に感動しました」と、たった一言でもあれば、それだけで距離は縮まる。時間は有限なんです。相手の時間を奪う前に、まず、自分の時間を“使って”ほしい。
■ 時間は、奪うものじゃなく「共に創る」もの
この時代、最も価値あるリソースは“時間”だ。
だから僕は、誰かに何かをお願いするとき、必ず「その人の時間をもらう意味」を考える。
でも、「とりあえずZoomで1時間」と安易に言える人たちは、それを考えていない。
──**あなたのZoom要請、何のための1時間ですか?**
僕は今、7月1日の発売に向けて、昼夜を問わず一人で準備している。
ページ設計、システム改修、物流設計、マーケ戦略、すべての工程を“本気”で走っている。
そこに、「SDGsっぽいので応援したい」と言われても、失礼だが響かない。
「今後の夢の実現に向けて応援できます」──じゃあ、今の僕は?
今、この瞬間、必死でやってる人間に対して、その行動を“応援の対象”としか見ていないのなら、むしろ侮辱だ。