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サーフィンの面白さは、非日常で死と向き合い、日常を本気で生きられるところにある

大きな波に巻かれた直後、水中で光を探すサーファーのシルエット
非日常で死を感じるからこそ、 日常を中途半端に生きられなくなる。

「これは死ぬかもしれない」と思う瞬間がある

サーフィンをやっていると、

ふとした瞬間に思うことがある。


「これは、本当に死ぬかもしれないな」と。


比喩でも、格好つけでもない。


大きな波に巻かれると、

一瞬で上下左右の感覚が消える。

どっちが上で、どっちが下か分からない。

身体は水に叩きつけられ、回され、引きずられる。

残るのは、息があとどれくらい持つかという感覚だけだ。


光を探し、そして再び叩き込まれる

無意識に、光を探す。

水の色のわずかな違いを頼りに、

必死に上下を探す。


ようやく方向を見つけ、

波から抜け出した瞬間、

一瞬だけ、光を感じる。


「助かったかもしれない」そう思った、その直後。


次の大波に、さらに強く叩き込まれる。


今度は、もう空気がない。

息を吸いたいのに、吸えない。

肺が勝手に暴れ出し、

身体が言うことをきかなくなる。


そこで、パニックが始まる。


死を感じる時間は、スローモーションになる

不思議なことに、

その一連の出来事は、

本当にスローモーションのように流れる。


数秒のはずなのに、

異様に長く感じる。


「このまま終わるかもしれない」

そんな考えが、妙に冷静に浮かぶ。


サーフィンで感じる「死」は、

こういう感覚だ。


これは恐怖を楽しむ話ではない

これは、恐怖を楽しむ話ではない。

危険を誇張したいわけでもない。


ただ、

死が現実として視界に入る経験が、

日常にはほとんど存在しない、というだけの話だ。


だからこそ、

海から上がり、少し時間を置いて冷静になると、

ある違和感に気づく。


日常では、私たちは死を感じていない

普段の生活の中で、

私たちはほとんど

死を意識せずに生きている。


仕事をしている時。

人と話している時。

スマホを眺めている時。


そこに死の気配はない。


にもかかわらず、

なぜか私たちは、

  • 無難に

  • 中途半端に

  • 「まあいいか」で

日々を流してしまうことがある。


非日常で、

あれほど生死に向き合った直後だからこそ、

この差が、はっきりと見えてしまう。


サーフィンの面白さは、日常に戻ってから始まる

サーフィンの面白さは、

非日常で死と向き合うこと自体ではない。


その感覚を持ったまま、日常に戻ることにある。


死を感じたからこそ、

日常を雑に扱えなくなる。

  • 今日やるべき仕事を、先延ばしにしなくなる

  • 向き合うべきことから、逃げなくなる

  • 遊びも、仕事も、人生も、薄めなくなる

そんな変化が、

静かに、でも確実に起きていく。


サーフィンは「チャラい」の真逆にある

世の中では、

サーフィンは「チャラい」「遊んでいるだけ」

そんなイメージで語られることが多い。


正直に言えば、

それは、かなり表面的な見方だと思っている。


サーフィンは、

自然と真正面から向き合わされる。


波のサイズも、タイミングも、

自分の都合では一切動かない。


逃げ場がない。

言い訳も通用しない。


自分の未熟さも、

恐怖も、

覚悟のなさも、

すべてがそのまま出る。


だからこそ、

戦っている感覚がある。


この感覚があるから、続けられる

この感覚があるから、続く。


サーフィンが続く人と、

続かない人の違いは、

技術や環境だけではないと思っている。


非日常で、

  • 恐怖と向き合い

  • 覚悟を試され

  • 自分の限界を知る

その経験が、

日常で「本気で生きる感覚」に

ちゃんと繋がっているかどうか。


そこが、大きい。


もしあなたが、


「これは、ただのサーフィンの話ではないと感じた」

「自分は、この“生き方”のどこに立つのかを、本気で考えたい」


そう思ったなら、ここから先は、会員向けで続きを書いています。


サーフィンの話を通して、

非日常と日常をどう繋ぎ、どう生き直すのか

その考え方を、もう一段深いところまで言語化しました。


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